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資料詳細

大黒天
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資料名:大黒天
ダイコクテン

作者:新納忠之介 ニイロチュウノスケ
1869年1月7日~1954年4月13日 (明治元年11月25日~昭和29年4月13日)

分類:美術品-彫刻
制作年:1914  20世紀前期  大正
所管:鹿児島市立美術館
キーワード:美術院 仏像修復 木彫 七福神

作品名(総称):大黒天
材質・形状・技法:
形状(縦・高さ):183.5cm
形状(横):64cm
形状(奥行き):58cm
形状(その他):直径 40
収集年月日:1952/7/5

解説:
新納忠之介は日本の古美術を守り、その修復に生涯をささげた木彫家である。新納は日本美術研究のため自分に師事していたウォーナ博士を通じて、京都と奈良に太平洋戦争の戦火が及ぶのを阻止した。また、国に残る神仏像、実に2041体を修理した。若き日の新納は、作成意欲に燃えた東京美術学校の優等生だった。しかし、日本美術の再発見者岡倉天心に古美術の修復に専念することを勧められる。返事は一ヶ月以上も遅れたという。この作品は模刻の一つで本作は、太宰府(福岡県)の観世音寺にある大黒立体像である。

この大黒天立像は、平安時代後期に制作された福岡県太宰府市観世音寺(かんぜおんじ)の木造大黒天(だいこくてん)立像(りゅうぞう)を模してつくられたものである。現在の福徳神としての大黒天は中世以降に神話の大国主(おおくにのぬしの)命(みこと)のイメージを融合する形でできたもので、もともとの仏教での大黒天は仏菩薩を守護する天部の一人で、悪鬼(あっき)邪神(じゃしん)に対抗する忿怒(ふんぬ)の武装神であった。寛(かんい)衣(大きくゆったりとした衣服)に袴(はかま)をつけ、大きな袋を背負う姿は後世の福徳神の様相を呈してはいるが、眉間に皺(しわ)を寄せ、鋭い眼光の厳しい表情は武装神に近く、大黒天が武装神から福徳神に移行する過渡期の様式を示している。新納は模刻にあたって、最初に粘土で制作し、石膏で型取りして原型をつくり、それをもとに木彫像を仕上げた。模刻ではあるが衣紋(えもん)等に変更がみられ、新納の創造を感じさせる作品である。(H25年度小企画展「石彫・木彫の美」解説キャプションとして作成)

台座左側面の彫られている文字は、以下のように読むことができる。
  木造 大黒天像
  大正三年 福岡県観世音寺所蔵の国宝を模し この像を刻み 今 記念のため鹿児島市に寄贈する
  古拙 新納忠之介敬白 奈良市在住 昭和二十七年六月吉日
旧鹿児島市立美術館の昭和29年9月開館に先立ち、寄贈されたものである。しかし、開館を目前にした、同29年4月12日に85歳で逝去している。
(H25年度小企画展「石彫・木彫の美」補説解説キャプションとして作成)